新館の方へ向かう古泉と別れ、俺は文芸部室に戻ってきた。 別に用があったり忘れ物をしたわけでもないが、なんとなくだ。 一応ドアをノックをしたら、少しの間の後「はい」と長門の返事が帰ってきた。 「俺だ」 ドアは開けずにそう告げたが、返事が帰って来なかった。 俺はそれを了解と受け取って静かにドアを開けた。 長門は部屋を出た時と同じ場所で本を抱えてこちらを見ていたが、俺の顔を確認したらすぐ視線を本のページに戻した。 朝比奈さんは居ないのか? と見回したら床の芋虫が2匹に増えていた。 結局、朝比奈さんも昼寝を選んだようだ。朝比奈さんは寝顔を見られないようになのか、長門の向こうに隠れるように横になっていた。 もちろん、こんな滅多に無い機会を俺が見逃すはずも無く、早速長門が座っている所まで行って朝比奈さんの見てて和むようなあどけない、天使のような寝顔を拝顔した。 ううむ、振り返ってハルヒを見ると対照的だ。というか、なんでハルヒはそんなどこぞの究極ビターチョコレートをそのまま齧ったような顔をして寝てるんだ? なんって思っていると、長門が微妙に俺を意識しているのを感じた。 元の無表情宇宙人インターフェースたる長門に慣れているせいか、静かにしてても『この』長門の表情というか纏っている雰囲気みたいなのが、俺にはよく判ってしまうのだ。 「あ、いや、女子の寝顔をあんまりじろじろ観察するモノじゃないよな」 「……」 この三点リーダーだが、長門は視線をさ迷わせていた。 既に本から意識が外れてるのが丸わかりだ。というか返答に困ってるんだよな。 寝ているハルヒたちを起こさないように俺は小声で言った。 「独り言だから気にしなくていいぞ。読書の邪魔して悪かったな」 「……いい」 小さくそう返事をした長門は顔を隠すように俯いた。 俺は長門から離れていつも座っている長テーブルの前の席に腰をおろした。 やっぱ慣れないな。 長門が少なく返答する言葉は、大体似たり寄ったりなんだか表情がいちいち違い過ぎてどうにも直視できねえ。 いや、そうじゃない。 長門が大人しいのを良い事に俺は意識的に長門を視界の外に追いやっていたのだ。 ここはあの時、俺が捨てた世界だ。朝倉の話からすると『そのもの』では無さそうだが、俺にとってこの長門は俺が消し去ることにした世界の象徴だった。 言ってみれば『禁忌』。そう、俺はこの長門に深く関わってはいけない――。 だが、その長門はいつの間にか抱えていた分厚い本を閉じ、顔を上げて眼鏡越しのその双眸をまっすぐ俺に向けていた。 「……長門?」 俺の視線を避けるように俯いた長門は、何かを決心したように静かに立ち上がり、本を両手で抱えたまま俺の正面まで移動してきた。 「あの……」 俯いたままの長門から、なにか重大な事を口にするような緊張を感じ、俺は長門の口が続きの言葉を紡ぎだす前に言った。 「ま、まて。長くなるなら場所を変えよう。昼寝の邪魔になるだろ?」 長門は黙って頷いた。 古泉が何処をぶらついているのか判らないが、さっき話した渡り廊下は避け、俺は分厚いハードカバーを抱えたまま離さない長門を伴って中庭に下りた。 よく晴れて風も無く午後の日差しが心地よい。まあ立ち話になるが、悪い選択ではなかろう。 「で、俺に話があるんだろ?」 俺がそう切り出すと長門はまず頷いて、それから本を抱き込むように持ち直してから口を開いた。 「あなたが『修復した』と言っていた、世界の改変をした人は……」 その話か。 長門には今のこの世界以前、朝倉に言わせるとこの世界の元になった改変世界ってことらしいが、それを創った主が元の長門、つまりこの目の前の長門の改変元であることは話していない。 だから「誰?」と聞かれても答えるつもりはなかった。いささか不誠実な対応だと判ってはいるがはぐらかして逃げると決めていた……。 「…私」 ……のだが。 「……」 この三点リーダーは俺だ。 ええと、長門さん、「です」とか「ですよね」とか語尾を付けてくれないと、“自分が宇宙人製インターフェースだって自覚した”とか、“推理の結果そう結論した”とか、いろいろ解釈が成り立ってしまうんですけど……。 困惑しつつ、俺は次の言葉を待った。 長門はこう続けた。 「聞いた話を総合すると、そうとしか思えない」 後者だった。やはりここでは長門は普通の女子高生なのだ。 というわけで、俺は返答に困った。 「ええとだな、それは……」 「いい。判ってる。私は判っていてこんな話をあなたにしている」 ええと、『判ってて』というのは? 「あなたは多分、私が傷つくからと思って私には教えなかった」 そうか。 そこまで判ってしまったのか。だったらもう隠す意味は無いだろう。 俺は観念して話をすることにした。 「その通りだ。元の世界の長門は、今のおまえのようになることを願い、世界を改変したんだ」 長門は大型ハードカバー本をきゅっと抱きしめ、俺の言葉に頷くように前髪で表情が見えなくなるくらい俯いてから言った。 「……そして、ヒントを残して選択をあなたに委ねた」 「そうだ」 だが、次の長門の言葉を聞くまで俺は長門が震えていることに気がつかなかった。 「あなたは一度選んで結論を出しているのに」 「長門? おまえ……」 「ううん、あなたは最初から迷わなかった」 俯いた頬。震えるほどきつく本を抱きしめた腕。 「私は選ばれなかったって判ってるのに……」 長門の頬から落ちた雫が、乾いた中庭のコンクリートに染みを作る。 「あなたは困ってるのに」 コンクリートに落ちる丸い染みは次々と重なっていった。 「私は戻ってきて良かったって……」 「もういい!」 俺は長門を抱きしめていた。 本を抱えていても長門の肩は俺の両腕にすっぽりと収まってしまう。 「私……」 「もう言うな」 俺はこの長門にかける言葉が思い浮かばなかった。ただ黙って抱きしめるしか出来なかった。 何を言えばいいのだろう? 「すまん」と謝って突き放せばいいのか? だが長門は俺が向こうを選択したことを判っていると言った。俺もその選択を覆す気はない。 だからそれについて『謝る』という行為は、この長門に対しても、元の長門に対しても失礼な気がする。 では「おまえは間違ってないよ」とでも言ってやるのか? 一度その存在まで否定しておいて、どのツラ下げてそんな事が言えるってんだ。 長門が俺の胸に顔を埋めたまま言った。 「……ずっと避けられて、目も合わせてくれなかったから」 「え?」 確かに長門の目は直視できなかったが、普通に挨拶とかはしているつもりだったが……。 「嫌われてるって思って、どうしてなのかずっと考えてた」 「って、ちょっと待ってくれ」 ――嫌われてるだって? 『嫌われてる』という言葉が長門の口から発せられた事が俺にはショックだった。 俺が長門を嫌うわけがあるか。それは誤解ってもんだ。 「聞いてくれ、俺はそんなつもりで……」 長門は弁解の言葉を最後まで聞かず、「それはもう良い」とでも言うように首を横に振った。 「でも、頭を撫でてくれたから」 頭を? 確かに覚えはあったが、思い出すのに時間がかかった。 それは朝倉のトンデモ告白を聞いた直後のことだろう。あの時は廊下が暗かったから表情を見ないで済んだんだ。 そういや、ここに戻されてから長門が微笑んだのを見たのはあの後、カレーの料理の時が初めてだった。 つまり、それまではずっと「嫌われてる」と思ってたってことなのか? 「……ずっと考えていた。世界を変えたのが私なら何でヒントなんか残したのかって。でも、私を本当に嫌っていないのなら、もしかしたら『選択』かもって」 そうか。 そうだった。 ここは、俺にとってはもう終わった世界の筈だった。 だから、話さなかったのだ。 しかし長門は考え抜いて正解に辿り着いてしまった。 思えば気付くのは時間の問題だったのかもしれない。俺は長門に気遣ったつもりが逆に余計苦しめてしまったのだ。 「いつ、確信したんだ? 確信したから俺に話したんだろ?」 「違う。今まで二人で話す機会が無かったから。話したのは確認するため」 「確認?」 「確信は無かった。でも、私の考えが正しいって、あなたがいま教えてくれた」 「そうか……」 長門はまだ身体を預けるように俺にもたれ、胸に顔を埋めたままだった。俺も長門の背中に手を回したままなんだが。 ところで、中庭で長門を抱きしめているというこの状況は客観的に見ればかなり恥ずかしい。思わず抱きしめてしまったが、そろそろ何とかしなければならないだろう。 そう思い、俺は口を開きかけたが、言葉を発する前に長門は言った。 「もし、選ばなかった私に気を遣っているのなら」 「いや……」 俺は俺の選択に責任がある。だからそれについて言い訳するつもりは毛頭無い。だが、ここに来てこの長門を前にして、情けない話だが目も合わせられない体たらく振りだった。 長門はこう続けた。 「私もずるいから」 「ずるい?」 「嫌われてないって判ったから。避けてるのはきっと『違う私』の為だって」 そう言って長門は俺の背中に手を回して抱きついてきた。同時に長門の抱えていたハードカバーがずり落ちて、コンクリートの地面で鈍い音を立てた。 「あなたは優しい人。だから私がこの話をすればこうなるって予想してた……」 「おっとストップだ」 そう言って俺は長門の肩に手を置いて長門の身体を離した。長門も背中に回していた手を緩めたが、それに抗うように俺の着ているジャージの上着の両わき腹の辺りをつまんだ。 長門の言わんとしている事はだいたい判った。 まだ目を赤くしているが、長門はその目を見開いて俺を見上げた。その瞳には怯えの色が見て取れる。 俺は肩を掴んだまま言った。 「つまりお互い様って事だよな?」 頷く長門。 「俺は元の世界を選んだ。だから元の世界に戻るために行動する。これは変えるつもりは無い」 「判ってる」 「だからさ、おまえも好きにすれば良いんだ。俺の優しさに付け込んで引き止めようと画策するのもおまえの自由だ」 「……」 ううむ、ここで複雑そうな顔をするか。 俺は続けた。 「安心しろ。俺はそのくらいで長門を嫌ったりはしない。あのハルヒと比べたらむしろ奥ゆかしいくらいだぞ」 その言葉を聞いた長門の目がまた見開かれた。 俺はその目が瞬きを二、三回するくらいの間を置いてから言った。 「この先どうなるか判らんが、ここにいる間は長門も俺も“仲間”だからさ」 考えてみれば俺が避けていたからこうなったんだよな。長門を泣かせた責任は俺にある。 その反省も込めて、俺は言った。 「俺も無闇に避けないようにする。だから、おまえも遠慮はするな」 「いいの?」 「いいも何も言っただろ? おまえの自由だって。というか、俺の方は『戻るために行動する』と言ってもその方法がまだサッパリだしな。今のところおまえはかなり有利だぞ?」 「……は、」 長門の顔から不安の色が消えたのを見て俺は言った。 「ただし、俺も負けるつもりはないからな?」 「はい!」 もはや別人だった。 その時、長門はもうこれでもかというくらいの笑顔で微笑んだのだ。 ――やばい。いきなり負けそうだ。 |