長門は顔を洗ってくると言って新校舎の方へ行ってしまった。俺は渡り廊下で長門の背中を見送った後、そのまま部室に向かった。 今回の合宿のベースキャンプであり、超SOS団の本拠地である文芸部室の中では、ハルヒも朝比奈さんもまだ横になって寝息を立てていた。 古泉はまだ戻っていない。 俺は、夢の世界の姫君達を起こさないように注意深く椅子を動かし、いつものポジションのテーブルの前から寄り掛かれるようにロッカーの前まで持ってきて、それに浅く腰掛け、背もたれに身を預けて手足を伸ばし身体の緊張を解いた。 しかしだ――。 成り行き上、長門にはああいうことを言ったが、それが問題の先送りに過ぎないことは判っていた。これは“長門には泣いていて欲しくない”という、言ってみれば俺のエゴだ。むしろ『嫌われた』と誤解されたままでも接触を避け続けていた方が『その時』に長門が苦しまないで済む、という理屈もあるのだ。 だが俺にそんな選択はありえない。何故なら、それを続ければ俺がこの世界に存在する限り、長門を苦しめ続ける結果になるからだ。いつになるか判らない『その時』までここの長門が苦しみ続けるなんて俺には到底許容できないことだ。判るだろ? 知ってしまった以上、現状維持なんていう選択肢は俺には無かったのだ。 無論、アレがベストな対応だと言うつもりはない。だが俺は時間のある限り、あの長門にしてやれることはしてやりたいと思っているんだ。 これも言い訳だがな。 ――俺がこの世界に再び放り込まれたのは七日前のことだ。 てことはもう一週間経っちまった訳だが、このたった一週間で色んなことがあった。 高校が違ってもハルヒは(超)SOS団を作ったし、どういう訳だか宇宙生命体の手先や未来人、超能力者まで揃っちまって、前と同じ状況にシフトしていってる。奇妙なイベントをお膳立てする『組織』はまだ無いようだがいずれ古泉やその仲間が作っていくのだろう。 まるで俺が元の世界に戻りたがるのに感応したかのようにこの世界は前の世界に近づいていっているのだ。 やはりハルヒなのか? 俺はあいつに元の世界の話をしたが、そのせいなのか――? † 「……あんたさあ、そんなに元の世界に帰りたいの?」 休み時間の教室。 俺は一年五組の教室で後ろの席に座るハルヒと話をしていた。 退屈そうなハルヒだが、北高の教室なのに何故か光陽園の制服で髪が長かった。 混ざってるぜ。 OK、よく判った。これは夢だ。 いつのまにか居眠りをしてしまったようだ。 外は良く晴れて、ぽかぽかと昼下がりの日差しが窓際の席に降り注いでいる。 ハルヒは何か面白そうなことに食いついてる時以外はいつでも詰まらなそうなんだが、今はそんな顔をしていた。 妙にリアルな夢だが、そんなことは気にならない。何故ならこれは夢だからだ。 俺は口を尖らして得意のアヒル顔をしたハルヒに言った。 「そりゃ帰りたいさ。まあ一応ここには元の世界と同じように長門も朝比奈さんも古泉も鶴屋さんも、おまけに朝倉まで居る。そしておまえもだ」 「だったら何が不満なのよ?」 「さあ、何だろうな。知ってるか? ここの古泉が超能力を獲得したし、朝倉が長門の代わりに宇宙人の手先だったし、朝比奈さんなんか未来に留学して帰ってきたんだぞ」 夢の中だから、こんなこともさりげなくバラしてしまえる。 「だったら元の世界と同じじゃない」 その証拠にハルヒも普通に返してくるしな。更にこんなことも。 「ハルヒ、お前にもイブのパーティー以来妙な力が発現しているんだってさ」 ネタ晴らしの年末大感謝セールだ。何に感謝するのかさっぱりだが。 「それでもジョンは嫌なの? そうじゃないわよね。元の世界だって同じなんだから」 少々不条理だが、俺は構わず夢の中のハルヒと会話を続けた。 「同じじゃないさ。おまえ何時からそんなにしおらしくなったんだ? 俺の知っているハルヒは何時だって傍若無人、支離滅裂、唯我独尊、あと何だっけかな」 「なによそれ」 「とにかくだ、突飛な行動で俺や周りを唐変木な事件に巻き込んでくれるような奴だ。ハルヒって女は」 「そいつの方がいいのね、あんたは」 「まあな。振り回されっぱなしだったが何時の間にかあいつやSOS団の皆と一緒にやっているのが当たり前になっていた。そんな感じだ」 それは偽らざる俺の本心だった。夢の中だから本音も簡単に口に出してしまえるのであろう。 確かに、この合宿やその前のパーティや街中探索もそれなりに楽しかった。 だが、俺の本心はやはり元の世界の奴らとバカなイベントに巻き込まれて右往左往する日々の方が良いと思っているのだ。 「ふうん……」 夢の中のハルヒは前の世界のハルヒもよくやるように、机に肘をつき、顎を支えて目を細めたまま横を向いてまた口をアヒルのように突き出した。 突然、何故か授業中。 夢の中の時間の流れは時として不条理なまでのご都合主義的跳躍を見せることがあるのだ。 俺は夢の中で更に授業中に居眠りをするという器用な真似をしていた。 それは突然やってきた。 いきなり背後から襟首をつかまれ、俺はそのまま後ろの机に後頭部をしこたま叩きつけられたのだ。 「何しやがる!」 俺はそいつにして当然の抗議行動を行った。 「判ったわ! 何でこんな簡単なことに気がつかなかったのかしら!」 だがそいつは、振り返った俺にその200ワットは在ろうかという笑顔で身を乗り出して叫んだのだ。 何言ってやがる。 「探す必要なんかないじゃない。在ることが判ってるんなら行けばいいんだわ!」 「ああ? 何があって何処に行くんだ?」 というか授業中だぞ? 「あんたの行きたい世界よ! 宇宙人や未来人や超能力者が居るっていう世界!」 「あのなあ、どうやって行くんだよ? 行く方法があれば俺がとっくに試してるぞ」 つい突っ込んでしまったが、それはこれが夢の中だからであろう。 相変わらずハルヒは光陽園の制服だし、髪も振り乱れるほど長い。 これが現実だったら俺はこんな火に油を注ぐようなマネはせずに、適当に返事をして石油ストーブの上のヤカンと化したハルヒの頭のクールダウンを図っていたことだろう。 だが、俺も夢だって事を念頭に置かず、殊勝にクラスメイトや哀れな担当教師の便宜を図っていれば良かったのかもしれない。そう思ったのは次のハルヒのセリフを聞いた時だった。 「なーにいってるのよ! あんた今言ったじゃない、あたしは神よ! この世界の神っ! あたしの思い通りにならないものは何一つ無いわ。見てなさい!」 何か、ハルヒが遠いところに行ってしまった気がした。 おかしな奴だとは思っていたが、とうとうイカレちまったか。 「ゴタクがあるなら後でまとめてワープロに打ってプリントアウトしてきなさい。あたしが全部まとめてシュレッダーに掛けてあげるから」 見ないことは確定かよ。 「いいから、今は大人しくしろ、授業中だろ」 「かまわないわ! 善は急げよ!」 何が善なんだ。とにかく周りの迷惑はこれ以上は……。 そう思って辺りを見回そうと振り返った瞬間、俺は急に重力が反転したような感覚に見舞われ、右肩と側頭部をしこたま地面に打ち付けた。 な、なんだ? 地震か? だが顔に当たった冷たい感触は教室のフローリングでも文芸部室の古びた木製の床でも無かった。 俺はこの時、ハルヒの力そのものと会話をしていたのかもしれない。 もしも、だ。 もしも、もう一度そんな機会が叶うとしたならば、俺はそいつにもう唐変木なことをするのは止めろと言ってやりたかった。だが、前にも後にもハルヒの識域下の人格らしきものと会話をしたのは唯一これ一回きりだった。 |