「もう、キョン君、危ないじゃない」 「は?」 既に両手にあった重みは消え失せていた。 目を開けた時、朝倉は俺の目の前、フローリングの足拭きの所で片膝をつき、俺が持っていたフルーツポンチのタッパとボールをその横にそっと降ろしているところだった。 ラップで蓋がしてあったとはいえ、俺がバランスを崩してから奪い取ったのにまったくこぼれていないのは大した運動神経だ。 朝倉はその体制のまま顔だけ俺に向けて言った。 「もしかして気分悪くなったの?」 俺は殺気なんて物を感じるほど敏感な神経は持ち合わせていないが、俺を見つめて首をかしげる今の朝倉にあの俺を殺そうとしていた時の雰囲気、つまり殺意のようなものは無いように思えた。 つまり、俺の勘違いか? なんだか動転してすげー恥ずかしいこと考えていた気がするが。 「すまん。大丈夫だ」 とりあえず、俺はそう答えた。 「そう? なんかただ事じゃない感じだったけど?」 「いや……」 「パーティーはお察しの通り嘘なの。本当は有希と二人でやるつもりだったのよ」 「だったら、そう言えばいいじゃないか」 「有希が気にすると思ったから。でも本当に大丈夫? なんか冷汗かいてるわよ?」 「何でもないさ、だたまた刺されるかと……い、いや」 やべえ、つい口がすべった。 朝倉は俺を見つめながら、かわいそうな奴を見るような目をした。 「……キョン君、やっぱりまだ私のこと殺人鬼か何かだと思っているのね」 「え? いやだってな、というか誰から聞いたんだ?」 そういう話は朝倉には一言も話していないはずだが? 「涼宮さんから聞いたのよ。いきなり人格障害者(パラノイア)なの、って聞かれるからびっくりしたわ」 あいつのせいか。面と向かって、ストレートにも程があるぞ。 「で、良く聞いたらあなたが言ったっていうじゃない? 確かに有希のことは気にかけてるけど、ちょっと妄想が過ぎるんじゃなくて? 私ちょっと傷ついたな」 「あー、いや、すまん、少し情報伝達に齟齬があったようだ」 取り合えず、言い訳をした。何の言い訳なんだが自分でも良く判らんが。 「うそ。2、3日前もそんなこと言ってたじゃない。信じてないんでしょ?」 拗ねたような目で俺を見上げる朝倉。やべ、すごく可愛い。 だが無論、信じてはいない。 すまんが、俺の知っている朝倉はどんなに友好的に見えても最後は見事にチェンジして物騒なものを振り回してくるんだ。正直、警戒を解くことだけは出来そうにない。 それは2回の強烈な体験が俺の意識下に根付いてしまっているからであろう。これはちょっとやそっとのことでは打ち消すことが出来ないのだ。 朝倉はそんな俺をじっと見つめていたがやがて、なにか諦めたかのように小さなため息を一つ吐き出して、立ち上がった。 「いつもナイフを隠し持ってるとか、そんなこと言ってたわよね」 「え? おい?」 朝倉は羽織っていたカーディガンを落とし、ブラウスに結ばれていたリボンを解いた。 「良く見て、わたしがなにか隠し持ってるかどうか。服も調べていいわよ」 「馬鹿、やめろよ」 俺の制止の言葉も空しく、朝倉はさっさとブラウスを脱ぎ去り、カントリー風のフレアスカートも重ね着のシャツも全部脱ぎ捨ててしまった。 「髪の毛の中も調べる?」 下着一つになった朝倉は俺に半身を向けてそのプロポーションを見せびらかすように誇らしげに胸を張りながら、片手でそのボリュームある長髪をたくし上げた。 こ、これは新手の攻撃だな? ナイフで刺すより俺の意識を駄目にしてしまう方が効果があると見た攻撃に違いない。 そんなものには屈しないぞ。俺にはやらなければならない目的があるのだ。 そう思いつつも、朝倉の豊満な胸の谷間や白い太股に視線が行き来しているのは悲しい男のサガなんだ。判ってくれ。 だが、次の瞬間、朝倉が俺の方を見たまま目を見開いて動きを止めた。 一瞬、何が起こったのか判らなかった。 そして朝倉が呟いた。 「有希……」 そのとき、俺は恐怖と快楽を同じ方向から突きつけられたような混乱の渦に巻き込まれていて、背後の扉が開いたのにさえ気づかなかった。それほど俺は狼狽していたのだ。 俺が振り向いた時、長門の手は既にドアノブから離れていた。 半ば開かれた扉は開閉装置の力で閉まりかけていた。 そしてその向こうに見えたのは、走っていく長門の後ろ姿だった。 朝倉は自分で脱ぎ散らかした服の中心で座り込んでいた。乱れ気味の真っ直ぐな黒髪が肩に腰にと朝倉のグラマスな白い肢体に艶かしく流れ落ちている。 状況を整理しよう。 朝倉は俺の『朝倉は妄想性人格障害者(パラノイア)である』という認識から身の潔白を証明するために服を脱いだ。いや、俺的には殺人鬼も露出狂も近づきたくねぇって点じゃどっこいなんだが。まあそれはともかく、そんなときタイミング悪く長門が俺の背後の玄関の扉を開けたんだ。そして俺の背中と朝倉のその姿を見た長門は無言で走り去った。 なるほど起ったことは単純だ。つまり朝倉が俺の目の前で自発的に半裸になってそれを長門が目撃した。ただそれだけだ。俺は何も悪くない。 OKだ。ならば俺はこのまま長門の部屋に戻るだけで良い。 「キョン君! あなたのせいだわ」 背後から聞こえた声に俺はドアノブを掴んだままの状態で動きを止めた。 どうやら朝倉は“微妙に非日常”という日常から何事も無かったかのように時速4キロメートル強のスピードで抜け出そうとする俺を許すつもりは無いようだ。 「あなたのせいでこんな、有希に誤解されるようなことを、ちょっと話を聞きなさいよ!」 とりあえず俺は扉の外に出て、話が聞こえるようにドアストッパーを挟んで隙間を空け、外側から背中でドアに張り付くよう寄りかかった。これなら話も聞こえるだろう。 理性的に考えればもう襲われる確率は低いらしいことが判るのだが、本能的な恐怖が遮る物の無い状態で朝倉に背中を見せるなと俺に命令するのだ。 「お、おまえが勝手にやったんだろ? 俺は何もしてないぞ」 「人を殺人鬼みたいに」 朝倉はテンパっているようだ。いつもの優等生然とした話し方でなくなっている。 だが、なんでここまでここまで批難されなきゃならん? 何度も殺されかけた挙句、今度は勝手に半裸になって俺が悪いと責られてるんだぞ。 「親しいクラスメイトにそんな風に思われていたなんて知ったわたしの気持ちが判る?」 「とにかく服を着てくれ。おまえが俺が思っているような奴じゃ無いらしいことは判ったから」 「らしいって、じゃあ少しは疑ってるのね?」 俺にしてみれば年末特別セールの大放出価格並に譲歩したのに朝倉はまだ不満と見える。 アレだけの前歴があったのに、いやこの朝倉は覚えちゃいないのかもしれないが、たかだか半裸を見せびらかしたくらいで俺の中から恐怖を取り去るのは土台無理というものだろう? そりゃ、これで朝倉に対する認識にある高ポイントが加算されたことは認める。なんのポイント何かは察してくれ。それが相対的に少しは恐怖を薄める結果になったってことは否定しない。 だがこれ以上ポイントを加算しても意味が無かろう。また別の意味で俺は引くぞ? 「だったら、どうしたら疑いが晴れるのよ?」 「服は着たか? 話はそれからだ。また誰か様子を見に来たらどうするんだ」 とりあえず廊下にまだ人の気配は無い。 朝倉はようやく服を着ける気になったのか、ドアの隙間から布の擦れる音が聞こえてきた。 しばらくして朝倉はドアのところに顔を見せた。 朝倉の服は急いで着たためか襟が少し乱れていた。 俺は反射的にドアから飛び退いたが、朝倉はそれを見て悲しそうな表情を浮かべた。 「キョン君、これ、持っていって」 「あ、ああ」 朝倉が差し出したのは、先ほど俺が落としそうになって朝倉が奪い取ったフルーツポンチセットの上半分だった。 俺にそれを渡した後朝倉は一旦玄関に引っ込んで下半分のタッパーを持って来た。 さっきは判らなかったがどうやら下のタッパーには食器が入っているらしい。振動を加えために固定されていた中身がずれたのだろう。朝倉が抱えているそれからはカチャカチャと硬質な音が聞こえた。 俺は朝倉の一歩後ろをついてマンションの廊下を歩いていった。 エレベーターの前まで会話は無かった。 というか、話が半端だったから俺の方から話し掛けようとタイミングを計っていたのだ。 疑いを晴らそうと事あるごとに裸で迫られそうな勢いだったからな。俺のスタンスは伝えとかなきゃならん。 「あー、朝倉?」 複数あるエレベータがどれも遠い階にあり、少し待たされそうなのを見て俺は話を切り出した。朝倉はすぐに投げやり気味に言った。 「もう、いいわ。近づかなければ普通に話してくれるんでしょ?」 そういうことらしい。ならいいか。朝倉も妥協点を見出してくれたってことだ。 「そのつもりだ」 俺はそう答えたが、朝倉はまだ開かぬエレベータの扉を見つめながら自分に言い聞かせるように、 「……有希の誤解を解かなきゃ」 そう呟いた。 長門については、あれを目撃した長門が何を思ったのか俺には謎だった。 ただ、あれはどう考えても俺が疑われるシチュエーションじゃなかっただろう? だがああいう類のいわゆる『事件』ってやつは往々にして男の方が悪いことにされることも俺は知っている。 疑われるべきは朝倉の方だ。 誤解を解くというより、あれだ、カミングアウトってやつ。 今まで俺の知っていた朝倉が俺の妄想って事にしたとしても、この朝倉は充分変な奴だぞ? いくら自分が危ない奴だと思われていたといって、いきなり男の前でストリップするか? 普通じゃないぞ。 「だって、敵意が無いってこと示すのに一番手っ取り早いじゃない」 どこかズレてるな。 やはり元宇宙人製ヒューマノイドインターフェースだからなのか? とりあえず朝倉は羞恥心より自分の名誉を重んじる奴らしい。だから言ってやろう。 「……ああ、判ったよ。朝倉はプライドが高いんだな。だがな覚えておけ。他人が誰でも自分の思っているように自分を見てくれるとは限らないってことを」 なかなか良い事言うじゃないか、俺。 「そんなどこかで聞いたような人生訓で誤魔化さないで。わたしはまだ諦めた訳じゃないのよ」 「そうかい」 まあ、いいけどな。あんなことはもう二度としてくれんな。 とにかく、俺に信じてもらいたいんだったら、戻ってから在ること無いこと言い訳して俺を陥れるような真似はしないでくれ。 「そんなことしないわ。そのまま伝えるだけだわ」 そうしてくれ。 俺も朝倉に失礼なことを言ったって汚名を受けようじゃないか。 この辺が俺の中での妥協点だ。 長門の部屋に戻るまでに俺と朝倉の間で取り交わした協定はこんなものだ。 すなわち俺は朝倉が人格障害者だと思い込んでいたとみんなに打ち明ける。 そして、朝倉は身の潔白を証明するために自分で脱いだ、ということをはっきり告白する。 あとの裁定は聞いたみんなに任せ、それ以上言い訳はしない。 こういうことは下手に言い訳しはじめると泥沼だからな。 |